5097617 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

山ちゃん5963

山ちゃん5963

14.団塊世代15.635制

十四、昭和団塊の世代

終戦が昭和二十年八月、兵隊の復員は大体昭和二十二年冬、だから、泰俊兄は昭和二十三年の生まれだが、この二十三年にうまれたものは団塊の世代といって戦後のベビーブームでのう、日本国はすごい多出産の世代の塊じゃった。なんせ北野でも三人も小学に入学したんだもんなぁ。(ひろし)、(てつお)、そして山口泰俊の三人じゃった。後に富某さんが転勤のため、四人になったが。東小学校はこの世代が入学する時校舎を増築したはずだ。たしかプレファブ校舎だったぜ。このベビーブームの大学卒業が実はワシの高専卒業とかちあうんだよ。
ところで、運動会の話だが、ワシらー東小学校の頃午前中は小学校の運動会があっての。ワシは大体短距離は早かったぞい。大体一等賞じゃったのう。なぜか三菱鉛筆とかもらったぞ。次に昼になると、家族で一緒にお弁当をたべるのだ。あれはうまかったのう。運動のあと、とくに母の巻寿司は最高にうまかったのじゃよ。中身は玉子・かまぼこ・きゅうり・かんぴょう等巻かれて入っとったぜ。おかずが、ゆでたまご・かしわのフライ・じゃがいものサラダ等、デザートは枝豆。久保柿。丹波栗。梨。葡萄等。とっても楽しい楽しい家族団欒の昼休みじゃったわい。それから、午後は町民体育大会に変わったのだ。地域分けは『地頭』『新町』『領町』『南町』『横田』『稲継』『北野大崎』じゃった。この地域名から昔の地域特性がわかる人もおるであろうが。さてワシらは北野大崎の組じゃった。ワシゃ徒競走。兄は組体操『美しい』。玉枝母は婦人会の玉いれ『がんばれー』。父は綱引き『よいしょ、よいしょ』。最後は地区対抗リレー。ワシもリレーに出たぜ。おじさんもおばさんも、老いも若きも、子供も幼児も走った走った。なかなか楽しい思い出だのう。団塊の世代は走るのも綱引きもなかなか強かったぞう。団塊の世代の前年うまれの越川のお兄さんが陸上部での、ワシゃ彼の短距離走の姿にあこがれてしもうたわけよ。だからワシゃ中学で陸上部の短距離部にはいったんだもんな。

十五、六・三・五制

ワシが小学校高学年の五年生の時の事じゃが、昭和三十六年四月に国立一期校明石工業高等専門学校が開校したのだ。本家の山口光義(みつよし)さんが明石高専の受験に失敗したんじゃよ。ワシゃほんじゃ一丁やっちゃろうと思うたんや。山口光義さんは柏原高校から神戸大学教育学部にすすまれたぜ。念の為記録しておくぜ。しかし、ワシの場合、これにハッパをかけられ、日本の学制が六・三・三・四じゃったころに突然できた新しい制度により六・三・五に進もうとしたのだ。これは文部省が『貧乏人は麦を食え』といった池田勇人の高度成長期にいかに世の中に早く技術系の優秀な人材を送り込むかを模索した結果の学制だったのじゃよな。ワシが東京に出て青山墓地の池田勇人の墓前の参り、名詞を供えたら、奥様から礼状が届いたなあ。まあしっかりした池田勇人の奥様じゃった。一方、ワシは高専を卒業すると、二十歳で会社に入社できるなあ、明石高専は国立やし五年で短大の資格が取れるし、家は貧乏やけど、国立高専は学費は安いから、非常に親孝行でけるなあ。と思ったもんだぞい。小学生でもそんな事考えとったんやで。どや、えらいもんやろうがい。そう思わへんこ?諸君。

ワシの通知簿見ればわかるが、小学校低学年は五段階評価の最下点『1』とか『2』とかひとつふたつはあったが、高学年になるとほとんどが最高点『5』になっとるぞ。ほんまによく勉強したもんね。その秘訣は次ぎの通りじゃよ。
1 毎日やる気を決して失わない
2 毎日死ぬ気で勉強する
3 毎日復習する
4 毎日予習する
5 毎晩最夜十時まで勉強する
6 毎朝五時には起きる
7 まあ目標があり毎日三百六十五日継続することが大切じゃのう。
諸君も頑張ってちょんまげや。たのむぜや。

小学時代五年生の社会見学は播磨の国『姫路城』への旅だった。ワシらは、朝早く七時半頃東小学校に集合したのう。御弁当と水筒とおやつともってのう。東小学校へ親達が見送りに来た。校長先生と担任二人と保健の先生そして五年生七十二人、朝八時バス二台は東小学校の校門を出発、西脇・加古川・姫路へと向かった。途中休憩があり二時間ほどで姫路に到着した。やはり姫路城は最高の城じゃった。別名『白鷺城』といわれとるだけあって、本当に白鷺の美しい姿が想像されたわい。美しいもの、未知のもの、芸術品を見に出かける。ワシゃこの頃から、旅行が好きじゃった。バスにしても列車にしてもいつも窓側に座っているよ。ほとんど寝ずに外界を見ておるよ。決して眠ったりせんぞ。一方、母玉枝はよく乗り物に酔ったのう、特にバスに弱かった。だからいつもどこかに出かける時は乗り物酔いしない薬を飲んでいた、しかし、なぜか、ワシは母には似ず、乗り物に酔わなかったのう。
ワシが旅行で一番の楽しみはおやつと昼弁当じゃったなあ。弁当の中身は忘れたが、母の愛情が詰まっていた記憶があるなあ。やぱり巻き寿司だったような気がするぞ。うまかちゃん。弁当の後はイグサ畳工場へ行った。姫路への社会見学は日帰り旅行じゃった、が非常に楽しかったなあ。もっともっとあちこちに行きたかった。
小学六年生の修学旅行は奈良・伊勢志摩じゃった。奈良の大仏、若草山の鹿。鹿に餌(せんべい)やったり、なかなか色々あったはずだがもう忘れとるわいのう。奈良の大仏のミニチュアを買ったなあ。次は伊勢神宮参拝そして二見が浦もうで、真珠の養殖の見学とあった。真珠は買えなかったなあ。ここの修学旅行は写真を見ればこっと思い出すであろうなあ。
昭和三十八年三月東小学校卒業。卒業時寄せ書きに『でっかい夢を持って進む』と書いた。今もワシの気持ちはあの時と同じだ。今でも『でっかい夢』を持っとるじょー。ワシゃ別に猛勉強の為に身体をこわしたことはなかったのう。多分十分健康じゃったのだろうねえ。親からさずかったこの身体じゃ、ワシゃ『お拾い様』だから健康に生きてきたのかい?それは諸君判断してくれい。



© Rakuten Group, Inc.